とまあこんな具合に、茶会は危なかしくも順調に進行していった
のですが、後半くらいになると、 最初はぎくしゃくしていた舞台に
不思議な一体感のようなものが芽生え、何というか_ お互いに
呼吸があってくるような、そんな雰囲気を感じるようになってきた
のです。
「ほうほう、これは何という道具ですかね」とか、
「もう一服いかがですか」 「あっ、では頂きます」 といった
具合に、変な力が入らず、自然に会話をしたり、抹茶を飲んだり、
道具(と言う程のものではありませんが)の説明をしたり_
いってみれば、毎年恒例の茶会を今年も同じメンバーでやって
いるような、そんな手慣れた、それでいて緊張感を保った空気が
漂っている_ そんな雰囲気を(少なくとも小生は)感じることが
できたような気がしたのです。
どうして、お互い初めての奇妙な茶会で、このような一体感が
生まれたのか?
これは、招待する側とされる側が互いに「成功させよう」
「盛り上げよう」「楽しもう」というような気持ちを持っていたからでは
ないだろうか。
つまり、道具は無くとも、設備は無くとも、一所懸命もてなそう
とする気持ちに対して、それを受け止めて、折角もてなしてくれる
なら、それに答えて楽しもうとか、この茶会を意義あるものにしよう
というような気持ちを客側も示してくれた_ というようなことでは
ないだろうか。
そして、
次元の違いは当然あるにしても、普通はそうは言わぬとしても、
これも確かに「一座建立」と言えるのではないだろうか...。
********************
こうして、小生が言うところの「異端の茶会」は、ともかくも無事に
終わりました。 その後、特別な被害の報告も無いようです。
「机上の空論」であるはずの、素人だらけの「茶会」を現実に開く
ことができたということに関しては、(その内容や結果はともかく)
小生が大いに満足であったことは言うまでもありません。
さらには_
小生が(茶道の部外者の素人として)理解しているところの、
「茶の湯の心」のいくらかは、今回のこのささやかで、いかにも
異端である茶会の中にも、見出すことができたのではないか、
招待した客を、我が家の採用した「異端の茶会」という方法に
よって、それなりにもてなすことができたのではないか、
などと...
まあ、自分で勝手にそんな風に考えて、ひとりほくそ笑んで
いたのです。
さてさて、小生の悪友達は、はたしてこの茶会をどのように
受け止めたのであろうか...。 (「異端の茶会」おわり)
コメント
ご無沙汰しております。
我が家でも、茶事初めて1人、2回目1人、5回目1人、
10回目位1人、数百回以上師匠で、なんとなくしてしまいました(笑)
茶事っていいですね。まだ朝茶事したことないので・・
いつかkitaponさんもどうぞ
ありがとうございます。
私が理想としているような茶事・茶会に(私が)招待されたら
楽しいだろうなぁと、いつも考えておりますが、
そんな茶会はめったにないわけで、当然そのような機会に
いまだ恵まれておりません。