武道の話の続きです。
一番、質(たち)が悪いと思えるのは、心などまるで鍛えてなくて、
人を倒す技だけがある程度強くなってしまったヴェテランです。
そんな輩は、稽古の成果を試してみたくてしょうがなくて、機会ある
ごとに、自分の技を披露してしまうかもしれません。
(出典不明)
で、 茶道の場合はどうだろう。
茶道のヴェテランが、ちっとも抹茶をうまく点てられなくて、それを
見ていた素人が、「私にお任せを...」と引き取って見事に点てた、
などということは、まあ有り得ないでしょうから、さすがヴェテラン_
というようなおいしいお茶を振舞ってくれることは期待できそうです。
しかし、もてなしの心が_ とか、人間としての振る舞いが_ などと
言われては、大層迷惑かもしれません。 だって普段はそんな練習を
(少なくとも意識的には)全然してなさそうなのですから...。
つまり、武道の場合と同じように、そんなことが満足にできるのは、
きっと一握りの達人だけなのでしょう。
また、心などまるで鍛えてない中途半端なヴェテランがたくさんいて、
彼らは(素人は知らないであろう作法をたくさん知っているので)、それ
こそ機会あるごとに(必要もないのに)、その作法を披露してしまったり
しているのではないだろうか。
もちろん、彼らはそのために、素人が大層迷惑したり、眉をひそめて
いるかもしれぬことなどに全然考えが及ばぬ_ というわけです。
ふんふん、なるほど_
もしそうであるならば、(武道はさておき)こと茶道になると、作法などは
二の次三の次で、心こそ大切だ一体全体彼らは何をやっているのだ_
などと声高に言うのでは、いかにも無理があるように思えます。
では、何故われわれ部外者は、茶道とは、例えば抹茶を点てて、
人に供する「技術」を教えるものにすぎず、その結果として人をもてなす
心が身に着くかもしれない… と言う風に_、 その程度に_、 茶道を
見ないのだろう。
それは、茶道に関連する書物なり宣伝なりに、
「茶道とは心...」 のような科白が氾濫していることも、原因の一つ
であると言えぬだろうか。 (つづく)