稽古場の魔力は師匠の人間性によってもたらされているに違いない
という話のつづきです。
稽古(茶道ではありませんが)をつけてもらっている時、小生はよく、
師匠の内面(つまり人間性)に近付こうとしている自分に気付きます。
これは、真剣になって師匠の説明を聞き、その技を自分もなそうと
すれば、無意識の内に師匠と自分を一体化しようと努力しており、
(恐れ多いか?)その結果として必然的に師匠の内面にも近付こう
としているのではないかと思います。
稽古場へ来たからといって、急に良い人間には変われません。
しかし、欠点を抑えて長所を出そうと努力することはできます。
つまり、小生はこの稽古場へ来ると条件反射的にそういう努力を
しているようなのです。 もっと解りやすく言えば、ここでは良い子で
いなくちゃ恥ずかしいぞ_ と考えているのです。
(「ここでは」ではなくて「どこでも」が理想ですが...)
そして、例えばつまらぬことを考えている自分を恥ずかしく思う
ような、そういった心境になることが(小生でも)できるのです。
他の稽古仲間も程度の差こそあれ、明らかに皆似たような努力を
しているように見受けられます。
そして、その結果として稽古場中がそんな雰囲気になりますから、
ますますそういう念力が満ち溢れてくるのではないかと思います。
もちろん、これが稽古そのものではありませんし、こういう努力を
しようと意識して稽古に来ているわけでもありません。
しかし、ある事柄を習おうとして稽古場に通っていると、その結果
として、師匠の内面まで見習おうとするので、だんだん大切な物が
身についてくる_ といったような流れではないかと考えるのです。
単に技や知識を得るのであれば、他にもいろいろ手段はありそう
です。 しかし稽古と言われるものは、やはり師匠から目に見えぬ
ものを受け継いだり伝授されたりすること_、 つまり人間を鍛えて
もらうとか、人生を教えて頂くというようなところへ繋がって行くから
こそ、世の人々に(普通)尊ばれ、存在価値を大きくしているのでは
ないでしょうか。
語学教室なら、ひょっとするとロボットでも教師ができるかもしれま
せん。 しかし、稽古の師匠はロボットにはできぬ理由がここにある
と思います。
つまり、だからこそ_
稽古における師匠とは、門人たちの人間性の成長なり形成なりに
大きな影響をもたらすものであるからこそ_
道具をたくさん持っているだの、重い役職に就いているだのを自慢
げに語るような師匠を見るにつけ、話を聞くにつけ...
ロボットの方がまだましかもしれぬなどと、つい思わずにはいられぬ
小生なのです。(つい力が入って、話が長くなったような...つづく)