(写真は本文とは関係ありません)
素晴らしい茶事の要所要所で語られた、とてもありがたいはずの
亭主(主催者)の話を、どうしても素直に聞くことができなかった_
という、危ない話のつづきです。
小生が一番残念に感じたことは、そこには出席者をもてなすといった
様子が一切見られないということでした。
いや確かにおいしい料理やすばらしい(と思われる)道具が一杯
披露されました。 庭も席も小生にとっては感嘆すべきものであり、
きっと大した仕掛けなのであろうと思われます。
なるほどそういう意味で言うならば、大層なおもてなしを受けたという
べきかもしれません。
でも、茶道の「もてなし」とは、そういうもののことを言うのだろうか。
部外者である小生が、勝手に茶道の「もてなし」というものを誤解して
いるのだろうか。
ここまで思いつくままに書いてきたのですが...。
ここで、(小生にとっては)驚くべき思考もしくは解釈が頭の中に湧き
上がってきたのです。
_そうかもしれない。
本来、人を「心で」もてなすなどというのは、大して重要なことでは
ないのかもしれない。
小生は今まで、心こそ大切であり、物でもてなすなどということは、
大分に程度が低い_ と信じて疑わなかったのです。
(写真は本文とは関係ありません)
しかし、本当にそうだろうか。
今回の茶事を思い返してみると、主催者は素晴らしい「物」でもって
出席者をもてなしてくれたことは間違いありません。
そして、心によるもてなしは_
小生に言わせれば、出席者が亭主をもてなしていたように思われた
のです。 つまり、出席者達は事あるごとに亭主を褒めそやし、それに
対して亭主がいかにも満足げであったのですから。
で、小生はいかにも落胆したわけですが、考え方を変えてみると、
この大物師匠は、普通の人ではとても出来ぬような大層な準備をし、
いろいろ高価な道具も揃えて、我々を大いにもてなした。
そして、それに対して我々出席者は、ほんのお返しとして、心でもって
もてなした...と、そんな風に考えることはできないだろうか。 (つづく)