(写真は淡交「別冊・茶懐石」より)
食事が終りに近付き、「よしよし、すべて順調」と顔を緩めている時、
隣の助太刀氏が意味ありげな顔で小生を見ているのに気付きました。
なんだろうと訝る小生に、小さな声で「ジャジャーン」と言いながら、自分の
飯椀の蓋を取って中をみせてくれました。
「おっと、しまった。」 中には一口だけ飯が残してあります。
小生は全部食べてしまったので、飯椀に何も残っていません。
これは、食事の最後に、残してある飯に湯を注ぎ、湯漬けにして食べる
という約束があるためで、何も入ってないと、空の飯椀に湯を注ぎ、湯を
ただ飲むだけという具合にならざるを得ず、きまりの悪いことになります。
止むを得ません。 いさぎよく、湯だけの湯漬けを食べることにしよう。
さて、助太刀氏の椀に湯が注がれるところを横目で見ますと_ 何と、
その飯椀は、いつの間にか小生と同じように空っぽになっていたのです。
これは一体どういう訳だろう。
先程はあった飯が無くなっているということは、助太刀氏が食べてしまった
ということです。 残すべきだと知っているからこそ、小生に見せてくれた
はずの飯を、何故わざわざ食べてしまったのか。
その答えは一つしか考えられません。
つまり、小生と同じようにすることで、少しでも小生の失敗を目立たなく
させよう。 もしくは、小生の間違いは、助太刀氏が間違えたのが原因だと
(他の人に)思わせよう...としてくれたのに相違ありません。
このくらいの失敗は、小生のような素人にとって大したことではないで
しょうし、助太刀氏が体を張って助けてくれたという訳ではありません。
しかし、黙って、何気ない風で、小生に気を使ってくれるその心こそが
素晴しく、些細でありながら、まことに「しぶい」振る舞いであると思うのです。
これぞ、茶人。 これこそ、茶道。
この出来事を経験できただけでも、今回の茶事に出席した意味があった
のではないか_ などと_ 思ったものです。 (つづく)